Week 53, 2025
GPT-5.2.icon Thinking今週のヘッドライン
「やってしまいたいこと」を棚卸し(スキャン、不用品売却、Brompton用パーツ設計など) — 2025-12-28
自転車ヘルメット試着(Flex-airとIZANAGI、サイズ感とフィット感比較) — 2025-12-29
週記・月記をまとめて更新 — 2025-12-30
12-100mm F4 のキャッシュバック情報/月ノ美兎ARG本(仮)の仮構成/「品質vsドラマ(VTuberダンス)」の整理/Cosense×Safari不具合 — 2025-12-31
予備試験のリスケジュール(ガント更新)/短答は「常識で切る」方針/伊藤塾システムが記録してくれず萎え/計画が遠くなり危機感 — 2026-01-01
週間目標を“強い禁止ルール”で設計(ネット禁止・Anki開始時刻固定など)/厳格審査基準「必要不可欠」の射程が広い感覚/知識が逆引きできない課題 — 2026-01-02
寝坊→外出失敗→YouTube視聴で敗北/メール処理1時間で「9日分」進める/生活保護・VFX系動画を視聴 — 2026-01-03
日記で普通ではない面白い事
**「VTuberのダンスは技術で品質を上げられるが、人は品質より“ドラマ(成長・執着・失敗込み)”を見ている」**という整理(テクノロジーで“ズル”ではなく努力の一部、と結論まで出してる)。
短答を「判例暗記ゲー」にせず、常識で“おかしい結論を切る”運用に落としている。ただし「知らない例外があるかも」という疑念が常につきまとう、というメタ認知が具体的。
学習ルールが極端に強い:ノルマ完了までネット禁止、見たくなったらスクワット、Anki開始時刻固定、スケジュールが押したら“諦めろ”など、行動設計がほぼプロトコル。
**「順方向は判定できるが逆引きできない」**を自分の知識構造の欠陥として明文化している(例:条文番号→適用場面の列挙が即答できない)。
メール処理1時間で9日分進むという、作業が“時間”ではなく“日数”で進捗管理されていてスケール感が異常。
Cosense×Safariの「ページ切り出しがセーブされない」みたいな、地味だけど致命的な摩擦が継続している。
ヘッドラインを「勉強」「創作」「ガジェット/自転車」みたいにカテゴリ別にも並べ替えますか?
ハルシネーション回想録
年の瀬の京都というものは、だいたいにおいて人を狂わせる。鴨川の水は冷たく、空はやけに高く、街角の観光客はやけに低い声で「エモい」などと言う。私はその一切を忌々しく思いながら、机に向かって「やってしまいたいこと」を列挙していた。スキャン。不用品売却。自転車の部品設計。週記と月記の更新。やるべきことは雪崩のように襲いかかり、私はその雪崩に対し、スコップの代わりに箇条書きを振り回して抵抗しているのであった。
箇条書きというものは便利である。箇条書きにすれば、人生の難事も「・」の後ろに収まる。収まった気になる。実際に収まっているかどうかは別問題で、むしろ「収まった気になる」という麻薬性こそ箇条書きの本質である。私は麻薬の常習犯の顔で、項目の横に日付を書き添えた。「これで今週は勝った」と思った。勝ってはいない。
翌日、私は自転車ヘルメットを試着しに出かけた。ヘルメットというものは頭に被る鍋である。鍋を被って颯爽と街を駆け抜けるのが現代人の洗練というなら、私は今すぐ縄文式の土器で暮らしたい。店員は私の頭蓋骨を見て「Mですかね」「いやLですかね」と揺れ、私はそのたびに「私の頭は国家機密につき測定不能です」などと言いたい衝動をこらえた。Flex-airとIZANAGIが並べられ、私は二つの鍋を交互に被っては鏡を睨み、鏡の中の男がいかに愚かに見えるかを確認する作業に没頭した。愚かさの確認は、なぜだか心を落ち着かせる。
年末は更新の季節である。神社は参拝者で更新され、テレビは特番で更新され、私のCosenseはSafariの不具合で更新されない。ページ切り出しが保存されない。私はページをリロードし、その度に内容は消え、保存されていないことを確認した。これは何かの禅問答であろうか。世界は「保存されました」と告げながら、私の努力だけを保存しないのである。私は世界に対して「では私もあなたを保存しません」と宣言したかったが、世界は保存されなくても平気な顔をしているので、こちらが負けるに決まっていた。
大晦日、私はカメラのキャッシュバック情報を眺め、ARG本(仮)の構成を練り、VTuberのダンスについて考えた。技術で品質は上がる。しかし人は品質だけを見ない。人はドラマを見る。成長、執着、失敗、取り返しのつかなさ、そして「それでもやる」という無謀。私はその結論に至り、なぜか自分の生活もドラマ性を増さねばならぬ気がしてきた。だが、私のドラマはだいたい寝坊と締切によって構成されるので、あまり娯楽性が高くない。
元旦、私は予備試験のリスケジュールをした。ガントチャートを更新する。ガントチャートというものは、人生を長方形で表現する魔術である。長方形が整然と並ぶと、人生が整然としているように錯覚する。私はその錯覚を最大限活用しようとし、短答の方針を立てた。「判例暗記ゲーにしない。常識で切る」。これは勇ましい。だが勇ましさの裏には「知らない例外があるかもしれない」という怯えが潜んでいる。私は常識で切った枝の先に、試験の神様が例外という名のトラバサミを仕掛けている幻を見た。
さらに伊藤塾のシステムが学習記録を反映してくれず、私は「努力が記録されない世界」に二度目の遭遇をした。努力は記録されず、保存は保存されず、私の一週間は「存在しなかった可能性」によって脅かされる。私はここで悟った。現代とは、何かをしたかどうかではなく、「ログが残ったかどうか」で決まる時代である。私はログのない男である。なんという無念。
二日、私は生活を改革する強い禁止ルールを制定した。ノルマ完了までネット禁止。見たくなったらスクワット。Anki開始時刻固定。スケジュールが押したら諦めろ。これはもはや生活ではなく、戒律である。私は自室を小さな修道院に改造し、スマートフォンを悪魔の像として祭壇に縛り付けた。悪魔の像は振動し、通知が光り、甘い声で私を呼ぶ。「ちょっとだけ見ようよ」。私はスクワットで応戦した。人間の尊厳が腿に宿るとは、私も知らなかった。
ところが、戒律には穴がある。穴の名は「寝坊」である。三日、私は見事に寝坊し、外出計画は崩壊した。崩壊すると、心は空白を嫌って何かで埋めようとする。そこで私が手を伸ばしたのがYouTubeであった。私は「敗北」という二文字を頭の中で鳴らしながら、生活保護やVFXの動画を見た。社会の悲哀と映像技術の魔術を同じ窓で眺めると、世界はますます奇妙に見える。私は画面の中の人々に勝手な親近感を抱き、そして自分の机の上の参考書に敵意を抱いた。敵はいつも身近にいる。
しかし、その日の私は一つだけ勝利を収めた。メール処理である。私は一時間で九日分のメールを片付けた。九日分という時間の塊を、一時間という圧縮機で押し潰したのである。これは人類の偉業である。だが喜びも束の間、私は気付いてしまった。九日分のメールが溜まる生活とは、つまり九日間、私は何かから逃げ続けていたのではないか。圧縮に成功した瞬間、圧縮されるべき私の怠惰が露呈した。勝利の味は、少しだけ苦かった。
夜、私は再び箇条書きを開いた。そこには「逆引きできない」という自分への苦情が書かれていた。順方向はできる。だが条文番号から適用場面を即答できない。つまり私は「知っているのに使えない」男である。知識が脳内の倉庫に積まれているのに、伝票がない。私は倉庫番として無能であり、商品の山の前で立ち尽くす。
ここで私は、妙な発想に取り憑かれた。ならば、知識にもドラマを与えればよいのではないか。人は品質だけを見ない。ドラマを見る。条文にもドラマが必要なのだ。私は条文たちを擬人化し、奇妙なサークルを結成させた。第何条は口が悪く、第何条は気が小さく、判例は大御所として遅れてやって来て、学説は二つに分裂してケンカを始める。私はそれをノートに書きつけ、笑いながら、しかし半分本気で、暗記とは物語化の技術なのだと確信した。
そのとき、スマートフォンが震えた。悪魔の像がまた誘っている。私はスクワットを始めた。鍋を被った日の愚かさ、保存されない更新、ガントチャートの長方形、寝坊の穴、九日分のメール――それら全部が、腿の筋肉に集約されていく気がした。私は汗だくで立ち上がり、机に向かい、Ankiを開いた。開始時刻は守られた。ログも残った。世界はまだ私を保存しないかもしれないが、私は私を保存する。
こうして私の年末年始は、壮大な叙事詩ではなく、規律と堕落とスクワットから成る小さな滑稽譚として幕を閉じた。だが私は知っている。滑稽譚こそが人生の基本形であり、私のような凡庸な男が英雄譚を求めるのは、ヘルメットを冠に見立てて王様ごっこをするのと同程度に見苦しい。見苦しいが、やめられない。だから私はまた箇条書きを書き、また鍋を被り、また保存されない更新に怒り、またドラマを求めて失敗するのだろう。少なくとも、その日付だけは、末尾にきちんと書き添えながら。
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